ロベール・ブレッソンの映画「たぶん悪魔が」を観て、うろたえるほどではないにしても、何らかの当惑と動揺を感じない日本人はいないのではないだろうかと言う気がする。
映画のストーリーは、人間による自然環境の破壊と、人類全体のそれに対する無関心と無力さとに絶望した青年シャルルが、最後には自殺(というか限りなく自殺に近い他殺)に至るまでを描くと言った内容で、これだけを書くと、まるでそこいらの平凡な映画青年が大学の卒業制作にでも選びそうな安易な内容にも思えてくるのだが、そこをブレッソンは彼独自の堅固で老獪な演出美学に基づいて、非常に端正で、時に激しさを伴う一級の作品に仕立て上げている。単純に主人公が自殺する話を作って世間を驚かせようなどと考えている人間は、この作品を観てみれば、自分の考えの浅はかさが身に染みてわかるはずだ。
そういった最終的に主人公が自殺に赴くというストーリー自体もそれなりに衝撃的だが、僕が個人的にもっとも衝撃を受けたのは、教会の中で若い神父を囲んで複数の人間がキリスト教の無力さや時代遅れの性質を、文字通り「糾弾」するシーンだ。ストーリー自体は表向きはシャルルを巡る恋愛譚が主体になっているので、このシーンはやや唐突で浮いて見えるのだが、唐突に挟み込まれる教会のオルガンのメンテナンス作業の不協和音や掃除機の機械音などが、このやりとりの悲壮で末期的な雰囲気をさらにもり立てて(?)いて、それ故になおいっそうこのシーンの印象が際立っている。
言うまでもないが、経済的にはどうあれヨーロッパ(特にフランス)はいまだに大半の日本人にとって美の規範でありあこがれの対象となっている。そしてそれらのほとんどが「壮麗」で「重厚」なキリスト教文化に端を発していることも、そういった人の間では承知のことだろう。しかしその肝心のヨーロッパに住まう人たちにとっては、それらが誇り高い物ではまったくないと言うことを、このシーンはもっとも直截にそして激烈に伝えてくれている。一つの映画のシーンだけで断定するのも安易かもしれないが、彼らは程度の差こそあれ、自らの歴史と文化と、その限界に倦み疲れている。少なくともそうしたタイプの人間が彼の地には一定数存在するのだということは、このシーンからでも十分理解はできる。
この作品は三十年以上前の作品だが、最近になってフランスやイタリアあたりで日本の漫画やアニメが人気になっていたり、チベット仏教などのキリスト教以外の宗教に改宗したりする人間が増えているらしいことからしても、現在はさらにどうしようもない、自然環境云々にとどまらない、もはやニヒリスティックにただ笑うしかないような閉塞感に現地の人間がうちひしがれていることは容易に推察できる。これはアメリカあたりでも良心的な人間の間では同様なのではないかという気もする。もっともこの映画のシャルルのような「見えすぎる」人間は日本同様そんなに多くはないのかもしれないが。
問題は日本にこういった観点がほとんど喧伝されていないことにあるだろう。この作品は日本では映画祭での上映のみで一般には公開されず、僕もDVDで初めて観たのだが、結局この作品がこういった冷遇に甘んじているのは、日本人にとってそれだけ彼の地があこがれの対象でもあるからで、だからこそこの作品は自殺を助長するなどといった表面的な理由だけでなく、日本では上映され得ないような気もする。つまり日本人全般に漠然と存在する、米欧に対するイノセントなあこがれを逆なでする可能性があると言うことだ。しかしそれは果たして日本人にとっていいことなのだろうか。
彼の地の閉塞感を救うのが日本と日本の文化であるとは僕もまさか思わないが、もし、単に大衆の神経を逆なでするからとかそういった程度の理由でこうした作品が上映されず、どちらの国にも存在するであろうシャルルのような「見えすぎる人間」がより孤立感を深めていっているのだとしたら、そしてそういった人間がその解決策として最終的に自殺に赴いているのであるならば、もはや「検閲」に近いニュアンスを感じる。そしてこうした相互の無理解と最終的にそれがもたらすであろう損失に、僕は無力感を感じる。
しかしこういったこの作品への日本の冷遇はおそらくは決して覆らないだろう。それほどまでに日本人の彼の地への美的な面を含めたあらゆる面でのあこがれと信頼は強固な物であり、それ故にこの作品が静かで強い当惑を巻き起こすことは確実だからだ。本来ならば人の目を開き教え諭し、あるべき世界へと導くことを目指していたであろう「美」という物が、ある面ではむしろ人を盲にし、頑なにしているなどとは思いたくもないことだが、現状ではこうした状況が変わりそうな気配は見えそうにない。それほどまでにこの信頼とあこがれは、牧歌的な至福をもたらしすぎたのだ。
彼の地と日本は、「美」の名の下にそれぞれに閉塞し、それぞれの内側に向かって崩落していく。両者を隔てるのが、まさか地球の丸さと大きさだったとは。ブレッソンがこの作品でとりわけこだわった足下の描写と足音の響きだけが、「これはあなたの話でもある」と語りかけているようにも感じられて、どこか救いのようにも感じられるのは気のせいだろうか?