まず最初に結論を書いておこう。水村美苗著「日本語が亡びるとき ― 英語の世紀の中で」はトンデモ本である、と。
実は昨年にネット上で話題になっていたのを見て、そのきわめて挑発的なタイトルが気になり、正月の3ヶ日に読んでみて、あんまりにも非道い本だと思ったので正直コメントするのも馬鹿馬鹿しいと思っていたのだが、ネットでの著作の評価を見るとどうもそうではないらしく、僕が感じたのとそれがほぼ正反対に近いこともあって、やはりこれは何か言っておかないといけないと思ったので書いておくことにした。要するにそれだけ作者の文章が丁寧かつ流麗で、論理の展開が巧妙だということなのだろう。ただ、範囲が広大なのと個人的にあまり興味が持てないので、どうもまとまりがつかない長文になってしまったが。
全体的には非常に文章が丁寧に書かれており、一部はかなり詳細な論議にも分け入って言及しているので、最後まで実にもっともらしく読めるのであるが、慎重に読むと、実はこの論考がところどころでとんでもない飛躍をやらかしていることがわかる。そのいちいちについてはここでは言及しないが、どうも全体を通してみてみると、作者は「日本文学は、そして日本語は英語によって滅ぼされようとしている」と、どうしても言いたいらしい。問題はこの作者がその主張をするために各所で恣意的な操作をやっていることにある。
まず、直接には言及していないものの、作者が多重言語者をことさらに称揚し、日本語しか話せない大多数の日本人の存在を真っ向から無視していることは、明らかだろう。こうした無視っぷりの原因は、おそらく作者が、「英語にはなじめない」と何度もくどいほどに言いつつも、普段は日常的にGoogle.com で英語で検索し、アメリカの Amazon.com や イギリスの Amazon.co.uk 、そしてフランスの Amazon.co.fr あたりから直接ドルやポンド、ユーロ建てで洋書を購入したり、英語で海外のホテルの予約や国際線の飛行機の手配などをしている人間だからではないだろうか。そういった人間であれば、あるときふと、日本語を使わなくなっている自分と自分の生活に慄然とすることは十分に考えられる。しかしほとんどの日本人がそういった人間でないことは言うまでもないことである。
また3章、4章の詳細な研究は良く調べ上げたなと感心しつつも、やはり恣意的な印象が強く漂い、うっかり斜め読みしてしまいそうになる。しかし氏はそうした読者の心情を置いてけぼりにして突っ走り、最終章にてインターネットの脅威論に踏み込んでいく。しかしこの最終章も恣意的な印象は、減るどころかさらに増大しているように感じられる。
例えば水村氏は「夏目漱石が今生きていたら日本語で書いただろうか?」という問いかけを最後の章を中心にこの著作の随所でし、そして即座にそれに対して「いや、書かないだろう。英語で書いたはずである」と断定するのだが、漱石の伝記や評伝などを読んだことがある人なら、この結論がおかしいことはすぐにわかるはずである。なぜなら夏目漱石という人間は、イギリスに留学したものの英語圏の文学表現に決定的な違和感を感じて、目標の「文学論」を書き上げることができずについにノイローゼに陥り、政府から帰国を命じられてしまった人間だからだ。つまり漱石は水村氏が称揚するような「知の巨人」であるには、あまりにも母国語であるところの「日本語」に骨の髄まで呪われた人間だったのだ。
だから、もし今漱石という人間がいたならば、間違いなく同様に、同様の原因でノイローゼに陥っていたであろう。それが現代に於いて起きた場合、おそらく決定的に違うのは、(これも極論かもしれないが)ノイローゼに陥るのが留学先のイギリスの居室か、それともインターネットに接続された日本の自宅か、その程度でしかないのではないか。つまり今、ネットで起きている「普遍語としての英語の覇権」とは、そういうことに過ぎないのである。これだけをとっても、水村氏がきわめて杜撰で恣意的な論理を展開していることは明かだろう。単に知らなかっただけかもしれないが、いくらなんでも「続 明暗」を上梓している人間にそれは無いだろうと思いたい。ただ個人的には正直言って、この点だけを取ってもこの論考は絶版にした方が良さそうなものだと思われるのだが。
(ついでに言わせてもらえれば、漱石同様に水村氏が称揚する近代文学者の多くも、「日本語に呪われている」と言ってもいいぐらいに悲哀に満ちた人生を送った人達だった。だからと言ってそのことで漱石を含む彼ら近代文学者の作品の文学的価値がまったく存在しえなくなるなどといったことも、また同時にあり得ないであろう。そうした作家達の人生の闇の面を無視して一方的な称揚をすることは、そのまま現代文学を萎縮させ先細りさせる原因のひとつになりうるのではないだろうか?)
また、水村氏はGoogleのネット図書館プロジェクトをやり玉に挙げて、英語の侵攻に対する脅威を叫ぶが、普遍語、あるいは世界言語としての英語の出現は、むしろ知の共有をめざす向きには非常に効率的ではないだろうか。たとえば以前なら日本に於いて医学を学習するにはまずはドイツ語を覚えてドイツ語の文献を跳梁し、そしてドイツに行かなければならなかったが、現在その必要が少なくなってきているのは門外漢にも明かだろう。主要の研究拠点が英語圏に移行してきているようだし、またインターネット上に英語で大半の情報が集約されているのだから、学習の手間が省けていいし、また複数のジャンルを跳梁してあたらしいジャンルがネット上で発生する可能性もあるだろう。いずれにせよマイナス面ばかりではないのは確かである。もし例えば、医学のジャンルに於いてドイツ語から英語にシフトしたことで、研究に障害が生じたり思考できなくなってしまった領域が発生してしまっているにもかかわらず、世界がインターネットなりGoogleを利用して英語への移行を止めないというのなら問題だろうが、寡聞にしてそういった話は聞かれないので、恐らく問題は無いのではないだろうか(実際にはあるのかもしれないが、医学史の領域以外ではちょっと考えにくい)。
逆にこれがコンピューター・サイエンスやコンピューター・ビジネスの領域になると、むしろ現在の状況を鑑みるに、どうもこのジャンルは英語でないと深い思考ができないと考えるしかないようだ。このジャンルの重要なトピックが、一部の例外を除いてほぼすべて英語圏から発生し、それがビジネスの領域に引っ張り上げられ、日々ネットを通じて世界に供され続けていることからも明かだろう(個人的にも、あの洋書のコンピューター・サイエンスの解説書の分厚さと詳細さ、そしてその分量には日々恐れ入っている)。これはOSやプログラミング言語が日本語ではないからとか、そう言った表層的な論議よりも遙かに深いところに根ざしているような気がしてならないが、それはここでは関係のない話だ。
また、そういうふうに考えてみると、逆に「文学」という領域が、原語を覚えなければ深い研究をすることができないことも、同時にわかることではないだろうか。つまり「フランス語がわからないフランス文学研究家」「日本語のわからない日本文学研究家」「英語の話せないシェークスピア研究家」などというものの見解を、世間がどの程度信用するのかということである。また、この領域でもフランス文学や日本文学を研究するには英語でないとダメだというような風潮が、ネットを中心に起きているのであれば大問題で、文化侵攻なのは間違いないだろうが、巷間そういった話も聞かれないので、このジャンルにおいてはやはり原語至上主義は揺るがないだろう。これはつまり現状は依然として英語が他国の「メタ言語」になっていないということで、要するに文学とは、ことほどさように作者の生活環境と母語に根ざしたものである証左だろう。
「別の言語が母語のメタ言語として侵入して、最終的にはそれを乗っ取ってしまう」などというような事態があるのかどうか。多重言語者にとっては実際にそういう風に感じられる局面も多々あるのが問題なのだが、もしそういうことが起きるとすれば、その最終局面、それは感情を表現する言葉にその別の言語が侵攻してきたときではないだろうか? 例としてあげるならば、ある種の感情について母語で言及するよりも、それは言及しないでいいと感じ始めたり、逆に母語で言わなくてもいいと感じることをその言語で言いたくなるときではないだろうか。そして誰かに向かって主語無しで「愛しています」と言うよりも、主語をつけて「I Love You」と言う方がはるかにしっくり来ると大衆が感じ始めたときだろう。そういった感情面での乗っ取りも終了したときこそ、めでたく 日本の Amazon.co.jp のベストセラーのランキングは(あやしいエコ風味のオカルト書や安易な啓発本も含めて)洋書にすべて蹂躙されるだろうし、映画も日本映画そっちのけで輸入DVDが主体になり、テレビゲームはRPGやギャルゲーではなく、集団で徒党を組んでの人殺しばかりのFPS系ゲームばかりになり、高価な日本のアニメのフィギュア類も駆逐されるだろう。しかしそういったことは散発的な例外を除けば現時点では起こる気配はないし、将来的にも起こりそうにもないことは言うまでもない。
結局のところ、水村氏はこの著作で、まるで今にも英語が「メタ言語」として他の言語の上位に侵入しようとしているかのような前提で論議を進め、最後は英語圏発祥のインターネット脅威論で読者を恫喝しにかかり、その挙げ句に「美しい日本語」とやらの教育の重要性へと飛躍する。しかし僕はここで作者に問いたい。「あなたは日本語版の Amazon.co.jp や Google.co.jp そして twitter.com を日本語で使っていれば、それだけで英語が覚えられるとでも言いたいのか?」と。作者の安直なインターネット脅威論からは、裏返しにすればこうした問いを導けると思うのだが、どうだろうか? しかしもしそれだけで英語が覚えられるのであれば、日本の英語教育の問題は万事解決だろうし、逆に純日本企業の楽天などは大弱りするかもしれない(笑)。(実際のところ、これらの英語圏発祥のWebサービスは、日本を含むアジアに於いて現地語のWebサービスを必ずしも脅かしているわけではないのだが、それは別の話だろう。また外資の流入などの観点からの脅威は依然として存在するわけだが、経済的な問題は門外漢なので別の話としたい。)
水森氏の頭の中にある「美しい日本語」とやらをなんとかして維持したいという気持ちは分からなくもないが、全体的には極論の固まりなのでこの著作が参考になる点は少ない。正直言って、ある男性アイドルの熱狂的なファンの女の子が、週刊誌に載ったそのアイドルの交際報道を見て震えている程度の執筆動機に基づいているような気もしないでもない(笑)が(ついでに言ってしまうと、もし漱石が現代に生きていたら、水森氏は漱石に向かって「あなたは不甲斐ない。あなたは間違っている」と説教するタイプではないだろうか。いわゆる「熱狂的ファン」にはよくあるメンタリティである)、著作の冒頭を含めた随所で作者自身が触れているように、単に体調不安が原因なのかもしれない。体調不良を押して参加したIWPの集まりで、国際言語としての英語の圧倒的存在感を見せつけられて慄然とした気持ちを抱いたことは同情するが、ここでは僕はあえて「それはほとんどの日本人にとっては特殊な状況である」と言いたい。特殊な状況を普遍化して語ることで陥る危険性に病的に無頓着なのは、評論としては論外ではないだろうか。
いずれにせよこの問題は言語と人間に関する様々な事象が深く関与してくるため、安直なインターネットと英語脅威論に還元すべき問題ではないし、それで語りきれるほどには単純な問題でもないだろう。また、それごときでくたばるほどに「日本語」は弱くないし、「日本人」の人口も少なくないし、「日本人」の生活も脅かされてもいないのである。ただ、もし日本語に危機が訪れるとしたら、それは英語の侵攻によってではなく、人口の大幅な減少によってもたらされる可能性が強い。著作の中でも言及されているシンガポールの人口は、たかだか約484万人(2008年)と、現在の東京都の人口の3分の1程度でしかないが、それにほどではないにしても、現在の日本が人口減少を開始していることは周知の事実である。だから数十年後にはもっと切実な危機感を持って日本語保護論が叫ばれるようになると思うが、これに対してはやはり子供を産み育てることで対抗するしかないのではないだろうか。それが結局のところ簡単で確実のような気もする。個人的には相当に大変だが(苦笑)。
ただ、水村氏の名誉のために書き添えておくならば、ところどころに非常に強力で納得できるような見解や表現も多いことだけは言っておきたい。特に最後にちゃんとこの問題に関して自分なりの見解に基づいた方策を提案しているのは、この手の著作でそういったことを一切しない、文句を言ったり恫喝したりするだけして対論は一切示さずに後は知らんぷりの日本語の著作が多い中では、十分に褒められていいことだろう。恐らくこれ自体が日本の文壇や出版界に対する批判になっているのはあきらかで、ここら辺に作者の誠実な性格が表れている。ただ、これまでにも述べてきたようにエキセントリックな要素が多く、万人には勧めにくい本なのが明白なのが残念である。とりあえず作者の体調の改善を期待したいところである。