ふと思い立って、カール・セーガンの「コスモス(COSMOS)」のDVDをAmazonで検索してみたら、海外版の7枚組ボックスセットが見つかったので、早速購入(ちなみにこのボックスセットはリージョンオールかつ日本語字幕付きなので、日本のDVDプレーヤーでもそのまま再生可能)。
この番組は彼が監修し、1980年代に全世界で放送されたTVドキュメンタリーで、当時、日本でも横内正の吹き替えで大々的に放送された物である。当時の僕は小学生だったが、ちょうどその頃はちょっとした天文少年だったため、テレビにしがみつくようにして毎回欠かさず見入っていたのだった。全世界を取材した映像(例の日本の平家ガニの話題も含まれていた)と特撮を交え軽々と時空を跳躍する屈託のない語り口と、番組で大々的に採用されたヴァンゲリスの印象的な楽曲、そして番組の放映と平行して発売された同タイトルの上下巻のハードカバーの単行本を、わからないまでも布団の中で深夜に何度も読みふけったことは、僕の小学生の頃の重要な良き思い出として、脳裏に今でも刻み込まれている。
いざ届いたDVDを観て驚いたのは、実は画質の低さだった。当時は子供心にすさまじい特撮を駆使する超高画質の番組と感じて驚嘆し、そのままそういうふうに記憶していたのだが、ある程度の美化もあったのかもしれない。収録されているのは、今となってはやや色あせたVHSレベルの画質のスタンダードフレームの映像と、同じように古ぼけた印象のある特撮映像だったのだ。当時のビデオ技術を考えれば、これはむしろ当然なことに思い至るのだが、子供心に感じた印象が強烈だったこともあってか、やはり未だに違和感をぬぐえない。いくつかの宇宙映像はハッブル宇宙望遠鏡からの最新映像と差し替えられているらしいが、実は意外に宇宙そのもののシーンが少ないこの番組の中にあっては、それもあまり目立たなくなっている。もう少し再放送されても良さそうな番組なのにと、かねてから薄々と感じていたのだが、この品質だと最近の高画質な放送の中にあってはかなり見劣りがするはずだ。少々残念な気もするが、自分の足下を見つめる意味では、これはむしろ良かったのかもしれない。
結局のところ、僕の人生は、僕が天文の道を志すことを色々な意味で許さなかった。天文関係の本を見て想像をふくらませて、自分の家を飛び出して夜中に空を見上げても、そこにあるのは常に光害とスモッグで白くかすんだ灰色の夜空だけだった。そして僕の周りには同好の士や師と仰げる人間は全く存在せず、あるのはかすかな驚きと嘲笑だけ。そして天体観測に必要な機材を購入するようなお金もあるはずが無く、すべては最後の最後まで空想の世界に終始した。
結局僕は、そうした環境と対峙することによって静かに培った、社会と人間に対する懐疑的な視点だけを自らの中に温存し、いつしか宇宙について考えることをやめ、ただそれについてだけ考える人間になったのだ。宇宙の道を志すには、まず自分のよって立つ社会を全肯定することが重要だが、そういう僕にはそれはできない話だった。そしてそれは今でもできない。マスメディア上で時折、宇宙飛行士や天文学者のインタビューを見かけることがあるが、彼らが今の社会をほぼ肯定している(それもこちらが狼狽えるほどに)ことは、語り口や表情からでも明らかなことで、それはこのDVDにおけるカール・セーガンも同じように見える。もちろん自分の夢を実現するには各自それなりの苦悩はあっただろうし、ただ表面だけ肯定しているように見えるだけなのかもしれない。しかしそれを突っ切って前に進むにはやはり、それを上回る社会と他人への愛着が無いと駄目なのだ。そしてこれは今の僕には、未だに非常に難しいことなのである。
宇宙よりも広大な謎が自らの裡にある。僕はまだこの大海の砂浜に立ち続けている。
この大海を探検することを志す人間は、まだまだ宇宙ほどにはいないようである。
やはり政府や大企業からお金を引っ張り出せるような要素がないと、立ち入る者は増えないのだろうか?
人類が足先を濡らすのは、やはりまだまだ先のようだ。