映画について語るのは無責任でいい。とにかく適当に気の付いた部分的な要素について、散発的に言及すればとりあえずは何かを語ったような気持ちになれるのだから。
たとえば俳優の演技であるとかアクションのすごさであるとか、あるいは最近ではCGであるとか音楽であるとか、そういった要素は作品の中でほとんど独立して言及可能な対象として存在しているため、表現としては間口が広い印象を与える。おそらくそういった点が、現在の消費社会にマッチしているのだろう。部分部分を切り取っていろいろなメディアにビジネスを展開させるには、映画は非常に好都合な表現手段なのである。
これが小説だとそうはいかない。なんといってもどこかを切り出そうとしても、それは究極的にはただの文字なのであるから、前後をかならず参照しなければいけない。前後を参照したとしても、それが必ずしも他人と受け取り方が同じであるとは限らない。それ故にやはり映画を語るときよりもはるかに慎重さを要求されるのだ。読み手の口腔から、その人間の人生を引きずり出す表現と言っても良いだろう。実はある種の映画を語るときも同じ慎重さが要求されるのだが、部分的・断片的な消費の方を強く要求してくる作品の方が巷間では遙かに多いため、最近はそれが耐えられない人間がやはり増えているようである。
ベルイマンが突如として新作の「サラバンド」を公表したことには驚いた。もちろん「ファニーとアレクサンデル」で、引退を宣言したのちも、実はまだ語り足りないところがあったのか、シナリオというかたちでならけっこう色々な映画に参加していたので、不思議ではないという捉え方もあるのだろうが、やはりある程度論理的な判断に基づいての引退宣言なのだろうし、そういう判断には何をさしおいても従う人間と感じていたので、やはりこれは驚きだった。
作品は「ある結婚の風景」の続編的作品(ベルイマンは明確にそうは言っていないらしい)なのだが、僕は「ある結婚の風景」の簡素な力強さと、とりわけリヴ・ウルマンの演技に深い衝撃を受けた人間なので、これも2重の驚きだった。すくなくともあんな演技が出来る人間(女優)は、日本にはいないしこれからも絶対出ないだろうと思う。同じことをやる意味があるのかどうかはともかくとして。
本編についての感想は、まだ書かないでおこうと思う。ベルイマンはやはり慎重に扱いたい。作品そのものはやはりベルイマン映画であり、年齢とブランクをまったく感じさせない仕上がりだった。それどころか老境にいたってなお、ユーリア・ダフヴェニウスのような若い女性を引っ張り出して作品のメインに据えて大立ち回りを演じさせるなんて、このおじいさんもやはり相当根性の座ったくせ者であると感じた。やはり巨匠のやることは違う(笑)
ただ1つ感じたのは、かつてのベルイマンの作品では、それは壁の割れ目であったり人形であったり時計であったり、そうした神の視点(便利な言葉だ)をになった役割に、後年のベルイマン映画を代表するヨセフソンとウルマンを据えたことは、おそらくは自分の人生に対しての慰労の意味合いもあり、そして白鳥の歌でもあるのだろうかということだ。ベルイマン映画では常に沈黙していた「神」が、ついにこの2人の人間の肉体のかたちを伴って、言葉をしゃべり出したのである。目の前の2人の演技を観ながらふとそんなことを漠然と感じた。
この映画の唯一の欠点は、撮影監督が盟友のスヴェン・ニイクヴィストでない点だけだが、これは晩年認知症に苦しめられ、日本でのこの作品の公開直前に、ついに物故してしまった人間にはやはり荷が重かったのだろう。心より冥福を念じる。
なんでもこの映画はベルイマンがいきなり「映画を撮るぞ!それもHDでだ!」と言い出したのが発端らしいので、できればBlu-rayやHD-DVDなどの高解像度のメディアで観賞したいところである。ついに最後の作品で、ベルイマンが撮影所で刻み込んだ「光」そのものに自宅で触れることが出来るのだから。