少し前に、実家に帰ったときの話を書くことにする。「たまには顔を出しなさい」と母に請われたのだ。
実は父の体調が思わしくない。というか、数年前に倒れて以来、半身不随の状態だったのだが、今年の春先にまた倒れて以降は、ついに意識が戻らなくなり、実質いわゆる「植物人間」状態なのだ。
医者によれば、もう脳細胞が相当に破壊されているので、意識が戻ることはまずありえないだろうとのことだった。つまりあとは死を待つばかりということだ。
よくある話だと思うのだが、僕は父のことをすべて尊敬しているわけではない。
と、こう書くと、強いエゴを振り回す、娯楽小説や劇画にあるような横暴で尊大な人間を連想するかも知れないが、事実は違う。昭和の高度経済成長期のどさくさに紛れて、集団就職で田舎から大阪に出てきて、お見合いで母と出会った人間の人生なんて、ごくありふれたモノだと思うので、それについてはとやかく言うことはないのだが、やはり今の僕の経験から考えても、父は人間としてあまりにも無為だったのだ。
父は僕を激しく罵ったり殴り飛ばしたりするようなこともなければ、家の金を使い込んだりあるいは女をよそに作ったりと言った具合に、自分のエゴのために僕たち子供や母を振り回すようなことはなかった。むしろ逆に恐ろしいほどにこの人間には野心や欲望のようなモノが無く、そして芸術に対する理解が全くなく(これが僕にはもっとも恐ろしく、腹立たしい)、口にすることは自分のひいきの野球チームの話ばかりと言った人間だったのだ。そして自分の人生について深く考えることの無かった、のんきとも取れるその性格は、そのまま部分的に僕に受け継がれ、成長するにつれて他人の野心に振り回されるようになった僕を苦しめた。結局のところ父は、学の無さではなく、知恵の無さで僕の心に細かい大量の擦過傷を負わせ、そして僕の人生をあらぬ方向に押し流したのだ。
あるいはこの人間にはどこか少し「遅れた」ところがあったのかも知れない。それは今でも僕に、どこか遠くから運ばれてきて電柱にひっかかっている、からっぽの一つの風船を連想させる。そうした性格を温存せしめたのも、働いている誰もが順次収入が上がっていった昭和の高度経済成長期の環境なのだろうが、それがさらに僕の苦悩を深くする。父の性格の人間が仮に今の世界に生きていたとしたら、今の自分のように単純に世の中から排除されているはずで、つまりはこの人間には責任は無いのだ。
しかし70歳を越えて、こうして小さく縮んでしまった身体を目の当たりにすると、そうした事細かな出来事はやはり少し馬鹿馬鹿しい過去の出来事になってしまう。なぜなら僕の人生それ自体が、すでに終演に向かっているのだから。
僕は特に悲しいとも思わずに、まるで自分の遠い将来を見るかのように、目の前の小さな肉体を見つめている。
母がベッドに横たわっている父の目を無理矢理指で開いて、
「ほら、瞳孔が全然変わらんやろ?だからもう脳が駄目なんやって、お医者さんが言うてたわ」
と言った。僕はそれを覗き込んで確かめると「なるほどね」と言った。
母もまた、父のそうした性格にさんざん振り回された人間なので、対応はごく淡々としている。
相変わらず、僕は悲しくない。
たぶんこれは今も世界中のあちこちで展開されている、ごくありふれた光景なはずだからだろう。
僕の手許には、家族に渡すために持ってきた自分の作品がある。
今回、久しぶりに実家に帰ることに応じたのも、これを持って来るためだったのだ。
ベッド脇の母に本を見せると、「ああ、それかいな。持ってきたんやね」と言って、「ここに置いていっても、看護婦さんとかお医者さんの邪魔になるだけやから、私が預かるわ」と言ったが、やはり僕としては渡すだけは渡しておきたい。なぜなら父はこの作品の原型を一度見ているのだから。
まだこの作品が未整理の段階の時に、何を思ったのか僕は、父に原稿を送って目を通させたことがあったのだ。父は例によってなにか知った風なことを手紙で書いてよこしたが、そのいずれもがまったく的を外れていて、なんの参考にも成らなかった。それどころか、そもそも書いてきた手紙は日本語の文法的にもおかしいところが多々あったのだが、これは、家族総出で出かけた映画館の場内で、照れ隠しに酒を大量にあおった挙げ句に、煙草を吹かして他の客に激しく叱責されるような人間のやることなのだから仕方無いのだろう。
僕は作品を父の手に持たせて言ってみた。
「お父さん、僕の書いた作品ですよ。夜中にでも起きて、ちゃんと全部読んでおいてな」
「アホかいなあんた」それを聞いて母は笑いながらそう言った。
でも僕は3分の1ぐらいは真剣だ。父は夜中にこっそり起き出して、これを読んでとんちんかんな解釈をいつか披露してくれるはずなのだ。目の前の父は愛することも尊敬することもできなかったが、いわゆる世間で言う「父親」というモノはそうしたものだと思うから。