北海道、とりわけ札幌に足繁く通うようになって数回にわたって足を運んだ場所の一つに、「モエレ沼公園」がある。このイサム・ノグチ最後の仕事の雄大なランドスケープは、いつ訪れても僕を魅了してやまない。以前、札幌出身の知り合いにこの施設を知っているかどうかを訊いたところ、知らないと言っていた。現地の人間が現地の名所のことを知らないのはよくある話なのだが、僕の彼の地への想いが大きいだけに、そのときはさすがに面食らったものだった。
最初に訪れたときには、まだモエレ山も造営中で、大噴水も建造中の冬の時だった。園内は雪に覆われ、平日に訪れたせいもあってか来訪者もほとんどいず、施設全体がただ静かに息を潜めて、春の訪れを持ち続けているかのようだった。
二回目に訪れたのは、モエレ山も完成し、噴水も完成したときだった。以前に訪れたときには雪に沈んでいた園内も、緑に包まれた姿をあらわにしていた。やはりこの公園には緑が似つかわしいと思う。雪に沈んでいるよりもその方がはるかにランドスケープの雄大さが際立つからだ。
モエレ山はすでに完成しており、山頂まで続く白い階段が、まるで天国への階段のごとくまっすぐと青空に向かって伸びていた。
後に三角点が設置される山頂には、このときにはまだ何もなかった。
モエレビーチには水が注がれ、来園者の目と足を潤していた。
そして大噴水である。単に水が高く吹き出るだけでなく、十数分から数十分にわたる水による一大ページェントを繰り広げるこの噴水は、時に激しく、そして時には海面を思わせるような穏やかさを交えつつ、水という存在と人間との太古からの関わりにさえも想いを馳せさせてくれる。それが時に牧歌的でエロチックな感覚を伴いさえするのが、イサム・ノグチ的だと思う。
グランドオープンを迎えていなかったせいもあるだろうが、この頃まではまだこの施設は知る人ぞ知る施設といった形で、園内は至って静かな物だった。しかしそれから三年をおいて三回目に訪れたときは、もはやそこにはそういった静けさはなかった。そこは札幌市民定番の憩いの場と化していたのだった。訪れた日は金曜日で早朝はまだ人が少なかったが、土曜日と併せて遅いゴールデンウィークの連休をとった家庭が多かったのか、十時頃を過ぎると家族連れが大挙して押し寄せ、思い思いに存分園内を遊び回るようになっていたのだ。
園内は緑が増え、これまで見た中ではもっとも木々が成長していたが、中でも一番驚いたのは、大噴水の周りのエゾマツ林の成長ぶりだった。噴水がオープンした当初よりも木々が高く大きく成長しており、僕はその様子に思わずうれしくなり微笑んでしまった。
枝からは新緑が芽吹いていた。その様子は、この林がこれまでの三年をかけておずおずとこの地に根付いてきたであろう、足取りの静かさと確かさを物語っていた。それを見ながら、そのうちこれらの木は成長するにつれて何本か間伐されさらに成長し、ついには数十年後、モエレ山からも見えなくなるほどに噴水を覆い隠すようになるのだろうかと、ふと思った。実際にどういったふうに扱われるのかは不明だが。
園内には子供達の歓声が響き、家族連れは思い思いにその雄大な景色を楽しんでいた。普段ならそうした人が集まるようなところは僕はあまり好きではないし、自分の好きな場所に人が大挙して集まるとむしろ不愉快な気持ちになる方なのだが、北海道の僕の愛する光の中でこの施設が、大勢の来園客と共に恒久の晩年を過ごす様を見るのは、なぜか無上の悦びを感じる。イサム・ノグチの少し「してやったり」のいたずらっぽい笑顔が目に浮かぶようにも感じられるからだ。
結局僕はこの日は数時間あまり園内を散策していた。そしてまた当然のように僕はここに来るだろうと確信したし、そうありたいと思った。おおよそ他では得られない悦びを与えてくれるこの公園が、僕は大好きだ。こんな場所は他にはそうそうないよ。