自分でもよくわからないのだが、北海道に足繁く通うようになって数年になる。回数ももうかれこれ二十回は超えているかと思う。こう書くとほとんどの人は「恋人が居るんでしょう?」みたいなことを言うのだが、実のところそうではないのだから困ってしまう。
北海道は自分にとってはやはり「色」なのだった。普通ならば例えば自然であるとか文化であるとかそういった面に目が向くものなのだが、実のところ僕の場合はそういったことはほとんど無いのである。僕が北海道についてもっとも魅了されるのは、本州ではまず感じることのない、色彩の違いだ。そう、北海道は間違いなく、空も森も壁でさえも、すべてが本州とははっきりと異なった色合いを帯びているのだ。もちろんそれは普段の生活に重要な平衡感覚を脅かすほどのものではないものの、本州とは異なったかたちで確かに存在しているのだ。
それをもたらしているのは間違いなく、空から降り注ぐやや白い光である。
その光は空港を降り立ったときからあたりを満たしていて、すべてを本州ではあり得ないような輝きで満たしている。空には、決して本州の空気に触れることなく、そしてこれからも触れることのない空気によって色づけられた青空があって、雲を浮かび上がらせている。実際、それだけで十分なのだ。それこそが僕にとっては何よりも痛快なことであり、魅力的なことなのである。そしてそういったこれまでに全く感じたことのない輝きの中で、そんなことなど全くなんでも無いように人々が静かに生活している。そのことが何よりも愛らしく、そして愛おしい。この輝きの中にあっては、この土地が他の地方都市同様に垣間見せる寂れた装いでさえも愛らしく見えてくるのである。
ただあたりを満たす「色」に惹かれると言うだけあって、僕の北海道旅行の愉悦は、はやくも新千歳空港から始まる。滑走路に降り立った飛行機の窓から、遠くに青く輝く千歳山脈を見つめるそのときから、僕はまったくの有頂天だ。そして飛行機を降りて地下のJRの駅から快速エアポートのuシートに乗って、車両が奏でるまるで吐息のように密やかな振動に揺られながら、雪の降り積もった、あるいは白い光の下で輝く緑の車窓を眺めるときこそが、僕にとってのもっとも極上の北海道体験の序曲なのである。そうしたとき、僕はいつもまるで背中の脂が少しずつ確実に溶けていくような感触に囚われる。もちろん実際には溶けていないし、そんなことが起きるわけもないのだが、実際、たかだか場所を移動したぐらいでそんなことを感じることが出来てしまうと言う、それこそが僕にとってのもっとも素晴らしい北海道体験なのかも知れない。所詮ただの一人旅なのだから、その後にたいしたことが起きるわけもないのだが、それでもこれから起きるごく些細なこと、もちろん他愛のない落胆も有るであろう体験の数々を想いながら、窓の外を見つめるというのは旅のもっとも贅沢な瞬間である。
そもそもどうして北海道なのかと、自分でも不思議に思うのだが、自分の人生を振り返ってみても、北海道にまつわる特別な思い出は一切無いのであるから不思議だ。せいぜい、日本地図を前にしたときに、本州と切り離されたところのにある北海道と、その中の地名を見て、「ここに行くなんてことは、生涯たぶん絶対に無いだろう」とつねづね思っていたと言うぐらいのものである。あるいは逆にそれが多少は関係しているのかも知れない。北海道に降り立ったときに僕が感じるのは、やはり僻地にきたという感触もあるからだ。物心ついたときから僻地と自らに言い聞かせてきたところに降り立っているわけだから、それなりの感慨もあるというものだろう。しかし回数を重ねるにつれてこの感触はそれだけでは説明できない何かを明らかに宿していることが判ってくる。
というわけで、僕は北海道の大自然や食文化とやらについては、結局のところ何ら語るところを持っていない。それらの例えば雄大さとか奥深さは僕には何ももたらさないのだ。それはある程度は本州と違っていて当たり前のものであり、特に目新しいとも思えないのである。もちろん現地の人々にとっては、こんなものはまったく産まれた頃から周辺に存在していることなので、理解は出来ないだろう。そうした人々が逆に本州に入ったときにどういった感興を抱くのかに興味がないわけでもないが、それを知ったからと言って自分にとってのこの感触が変わるわけでも無いような気もしている。所詮、人はあらゆる意味で産まれた場所に縛られる生き物に過ぎない訳だし。
思い出の場所は数多くある。今でも最も記憶に残っているのは、襟裳岬に向かう車中から見た晴天下の太平洋の輝きだ。僕は間違いなく臨終の際にこの光景を思い返すだろう。それ以外には札幌などの町のごく普通の裏通り、それもどちらかというと雪に埋もれる様子も愛おしい。また、各所にある神社や仏教寺院が雪に凍えて縮こまっている様子は、本州でのそれらが常に威容を誇って周囲にさまざまな影響を与え続けているのと対照的で相当に痛快だ。ここはとりあえず日本の北限で、徐々に足下の地面が日本で無くなっていく様子にも触れることができる場所なのだ。
そういった感じで僕はいつも彼の地を恋い焦がれている。そして時折、その光の中に赴いて自分の許に訪れるであろう未来のことを想うのだった。