旧ソビエトの映画監督、セルゲイ・パラジャーノフについて何かを書こうとして思わず失笑してしまった。そう、僕はとにかくどうしようもなく不当に虐げられたものたちのことが気になって仕方がない人間なのだ。おそらくは僕はそこに自分の似姿を見てしまうからなのだが、よくよく考えてみれば嗤ってしまうほどに単純だ。
僕がパラジャーノフの映画に出会ったのは、映画雑誌の広告が最初だったと思う。自慢ではないが僕は、他人から「あなたはこう言うのが好きなんじゃない?」と言われて薦められたモノで、憤慨することはあっても感心したことが全くない人間なので、こういったのはごく普通の出会いなのだが(考えてみればベルイマンも同じだ)、映画を鑑賞後、一発で魅了された僕は、その後発売されたレーザーディスクも即座に買い求めたのだ。たぶんそのディスクはまだ実家の押入のどこかにあるはずだ。
パラジャーノフはその生涯の間に、たった4本の長編映画しか撮ることができなかった。なぜなら2本目の長編映画「サヤト・ノヴァ(ざくろの色)」を撮ったとたんに、その内容のすさまじさにソ連当局から不振人物扱いされて長期間にわたって投獄されてしまったからだ。
すさまじいと言っても道徳的にすさまじいのではない。見た人間には一発でわかることなのだが、とにかくそれは映像による「詩」そのものなのだ。一見政治的なメッセージはほとんどないので、ソ連当局がこの映画の何に反応したのかはわからない。しかし世界映画史上の中で、かつてこれほどまでに自らが属する民族への愛着を、映画という手法で高らかに歌い上げた人間がいただろうか? もしソ連当局が畏れたのだとしたら、それはこの作品で表明されている内容にではなく、アプローチのイノセントさに震撼したからだろう。そしてそれは数十年後に極東の島国に生まれ育った孤独な30男を恥じ入らせるのにも充分なほどなのだ。
パラジャーノフの映画を見て、寺山修司的だという人もいるかも知れない。しかし寺山修司という人は、基本的に都会に対するコンプレックスの反動で、日本的な要素に意図的に接近した人間だと思う。しかしパラジャーノフにその手のコンプレックスがまったく存在しないことは、火を見るより明らかだ。パラジャーノフのストレートさに比べると、寺山修司は相当に病的に屈折して見えてくる。彼は寺山修司が呆然として立ちつくす冷たい都会の表層を、いたずらな笑みを浮かべながら公衆の面前であっさりと引きはがして、その民族的な下地をむき出しにしてしまえる人間なのだ。だから両者はまったく「似て非なるもの」と言っていい。むしろ日本の表現者にたとえるなら、パラジャーノフは寺山修司ではなく、棟方志功により近いかも知れない。少なくとも自らの育った文化や環境に対する恥の感覚がほとんどないあたりや、全編に力強さいユーモアが満ちているあたりにおいて、ジャン ルは違うけれども両者は共通していると言える。
その後ながらく、パラジャーノフの映画はDVDでは観賞できなかったのだが、どういうわけかいきなり「ざくろの色」のDVD化が決まり、そのときは色めき立ってAmazonの購入ボタンを押したものだった。そしてそれからほどなくして、「アシク・ケリブ」と「スラム砦の伝説」もリリースされた。この2作はパラジャーノフが監獄から解放されてから撮ったもので、やや体力的な衰えのようなものは感じるものの、パラジャーノフをパラジャーノフにしている本質的な部分はまったく変わっていないことがよくわかる。いずれも民話を題材にした作品だが、凡百の表現者は、民話的なストーリーを今によみがえらせようとした場合、通常、それを今現代に再現することの意味や意義を考えながら再構成するプロセスを経るものだと思うはずである。しかしこの人間にはそんなこざかしいことをする必要は全くないのだ。「ざくろの色」で「詩」をそのまま画面に焼き付けてみせたこの人間には、民話を民話のままの状態で画面に焼き付けることなぞ、いともたやすいことなのだ。
主にヨーロッパの映画人や文化人が必死になって活動したおかげで監獄から出所できたパラジャーノフは、あるとき友人の映画監督のアンドレイ・タルコフスキーに向かってこう言ったそうだ。
「君も一流の芸術家になろうと思ったら、1回は監獄に入らないと駄目だね」
タルコフスキーがこれに対してどう応じたのかについてはわからない。でももし僕がそう言われたならば、こう答えただろう。
「知らないんですか?人間はみんな生まれたときから監獄に入れられているんですよ。でもほとんどすべての人はそれに気が付かないんです。そんなことは、あなたが一番ご存じのはずだと思うんですけど?」
さて、パラジャーノフはどう応じるだろう? いつかあの世で本人に訊いてみたいものだ。相手にしてもらえるかどうかはともかくとして。