父の葬式に行った。
何よりも肉親の死なわけだし、葬式の場に立ち会ってみれば、それなりに思うこともあるのかも知れないと思っていたのだが、実際に関わってみると家族全員にしろ親族一同にしろ、一様に取り乱すこともなく、式次第は淡々と進行していった。
まぁ、以前から病状が一進一退を繰り返していたと知られていたわけだし、みんなある程度覚悟は出来ていたのかも知れない。僕も東京に引っ越してからは、父との関係についてはある程度頭の中で整理が付いていたわけで、実際に父の死に顔を見ても、そして荼毘に付して遺骨を拾い上げてもなんの感興もわかなかった。そこにあるのはどうしようもなく、どこにでもあるごくありふれた葬式の風景だったのだ。
しかし、つまらないメロドラマでよくあるような、死んだ家族の事を思って遺された連中が会話するようなシチュエーションに自分が加わるなんて、以前なら思いもしなかったことだ。親族の死は唯一無二の経験でもあるわけだが、同時に誰にとってもありふれた光景であるわけで、やはりその素材の安易さは慎重に扱われるべきモノだろう。今回の葬式で僕は、人の死というモノの「ごくありふれた光景」という側面を強く目の当たりにするという、非常に貴重な経験ができた。これはもしかしたら、父がその身を挺して知らずして僕に贈ってくれた、最後の贈り物なのかも知れない。
というわけで僕も親族の死については、これ以上は語らないことにする。 なによりも重要なのは、普遍と特殊の狭間をより深く見つめることなのだから。