(「父に作品を渡す」の続き。)
病床の父を見舞った後、駅前の定食屋で遅い夕食を取る。 病院の近くには食事をするのに手頃な食堂などがなかったのだ。
僕は父と会っても特に食欲が衰えると言うこともなく、そのまま素直に鰻丼の食券を購入。 母は初めて来る店なのでメニューの勝手がわからず、「どれがええやろ?」と言いながら、結局は鉄火丼を注文した。
母は70歳を越えてもいまだに背中が丸くなることもなく矍鑠(かくしゃく)としている。それどころか、いまだに毎日自転車で自宅から少し離れた会社に通い、事務の仕事までこなしているのである。東京に住んでいると、当然のことながらいろいろな老人を町中で見かけるので、なおのこと目の前の老女の壮健さは新鮮に見える。だからといって、僕にとってはまったく誇らしく感じない点が、まったくもって不思議なのだが。
母は席について食券を差し出すと、おもむろに財布から、70歳以上になると行政機関から交付される「敬老優待乗車証」を僕に見せて、「これがあったら、どの鉄道でもバスでもタダになるから、見舞いに行くときでも助かるわ」と言った。それだけでなく、ほとんどの博物館や美術館などが70歳になると無料で入れてしまうらしい。僕は果たして自分がそこまで生きるのだろうか?と思いながら、東京で使っている電子マネーのカードなどを示しながら、しばし自分の暮らしぶりを話した。こうして向き合って話すのは確か10数年ぶりかになるはずなのだが、不思議と喜びは感じない。
そのうちに料理が到着し、母はご飯を口に含んで「このご飯、よう炊けてるわ」と言った。
「しかしほんまに、惚けてくれへんかっただけでも助かったわ」食べながら母は父の話をし始めた。「あの人にはほんまに、いいようにされたもんなぁ」
病院に行くタクシーの中で、母は自分の結婚指輪の話をした。なんでも父は、結婚したら作ってやると母に約束した結婚指輪を、ついに作らなかったらしい。母はそのころすでに働いていたので、世間の目もあって、結局自分で結婚指輪を作って自分の指にはめたのだそうだ。
「とことんまで照れ屋なんやな」僕は父がそこまで恥知らずだったとは思いも寄らなかったので、軽いショックを受けたものの、これまでのことを考えればある程度予想できたことでもあったので、そう答えた。そして父からはそのことについて、その後まったく詫びの一つもなかったらしい。僕は自分のなかにそう言った要素が少しでもあるのかどうかについて、しばし自問自答してみた。資金的な障害は当然のようにあるかも知れないけれども、そんな強情を張ったところで自分が得るところは少なそうなので、結局はそんなことはしないだろうと思うのだが、それでも同じ血を引く人間である以上、自分の中にそう言った要素が多少なりともあるのではないかと、ついつい探りを入れてしまう自分が少し哀しい。
父は家族でどこかに出かける約束をしていたときでも、当日になると態度を突然翻してしまうことが多かった。そして矛盾を問い詰められると逆上するのだ。もちろん仕事で疲れていたこともあったのだろうが、それならば最初からそうした約束はしなければ良いだけの話なので、そうしたときにだけ発揮される父の奇妙な義務感は、逆にこの人間をより幼稚な人間に見せていた。結局、僕たち家族は、何らかのかたちでこの人間のそうした曖昧で中途半端な態度に振り回され続け、結局は漠然と散りぢりになってしまった。そうした人間が惚けるのを見るのは腹立たしい話なので、母の意見には同意できるのだった。
結局母は、出てきた鉄火丼の量が多かったのか、上に乗っていたマグロとご飯を少しだけ食べて、あとはほとんどを残した。「なんや、おいしいんとちゃうんかいな」「いや、やっぱり量は多いわ」僕らはそのまま店を後にした。
店を出てそのまま駅へと歩きながら、僕は母に言った。「でも意外と、健康そうに見える老人が、いきなりポックリ逝ってしまうんやで」まぁそうかもな。と母は軽く笑いながらそう言った。そう言いながら僕は確信している。もしそうなったら僕たち兄弟は完全にばらばらになるだろう。おそらく法事などは早いうちに有耶無耶になるだろうし、それどころかお互いの連絡さえも数年おきぐらいにしか取らなくなるだろう。しかし僕はどこかで、それを静かに期待し、むしろそうした境遇を愛そうとさえ感じている自分が居るのを感じている。親を心の奥底から愛せるほどには人生の喜びを甘受していない人間にとっては、むしろそういった考え方の方が親しく感じられるものなのだ。自分の人生の終局がほとんど見えてきた人間からすれば、なおのことだろう。甚だ不謹慎な話かも知れないが、不謹慎な親元で育つとこうなるという好例だと思う。以て他山の石とされたいところだ。